| インドで学んだこと |
宮地 敏子
親しい友が来たとき、迎えに出た空港からの道すがら「『汚い、貧しい、遅れている』という形容ぬきで観ていってね」と口癖のように言っていた。それは実は自分自身に向けた言葉だったように思える。5000年の歴史を持つインドで、17世紀には世界で一番豊かで進んでいたインドで、たかだか数年軒先を借りただけで、何が見えたといえるのだろう。
女性の地位が低いと言われる。なのにラクシュミやカーリーは崇められる。
「インドには母はいても、女はいないのよ」などというインド人もいた。
あるときジャーナリストにこの質問をぶつけてみた。
「インドの女神はとても強いし敬愛されていますが、インドの女性、特に地方の女性の地位は随分低いように思います。このギャップを説明していただけますか」
彼は、「その通りですね。それを説明するのは大変です。インドの歴史を勉強なさってください」
にこやかに一蹴された。
国立博物館にカーリーの化身と言われるチャームンダーの像がある。遠藤周作『深い河』に出てくる人間の苦渋を全て受け入れる女神だ。つい最近のことだが、ガイドがその像の前で足を止め、「ここの頭のところに仏陀がついていましたが削り取られています」と言った。『深い河』では聖母マリアにたとえられていたチャームンダーである。
かつて何処かの寺院で、仏陀に近い存在で日々人々に「祈られていた」チャームンダーは額の欠けた姿で、今「鑑賞されている」。確かに歴史の勉強が必要だ。
インドの学生と触れる機会が与えられたが、『祈り』と『自立』が、日本の若者とは違うように感じた。日記を書かせると、十人中十人が『祈り』から一日を始める。宗教が異なってもこれは変わらない。ヒンドゥー教で「梵我一如」という言葉をよく聞くが、一人一人の個我アートマンは絶対者ブラフマン(梵)の顕現だとすれば、日常生活レベルで考えると、学生は毎日自分の神と対話しているわけだ。自己主張が強いとか利己的だというのは少しちがう。後ろ盾の神が後押ししている。月曜日はシヴァ神、木曜日はグル・ナナーク、金曜日は女子学生の多くが自分の祈りの対象の女神のために断食する。自分のなかに神を存在させること。この強さは落ち着きとなって現れているように思った。
『自立』だが、宮沢賢治はいわゆる発達心理学からみれば、自立してはいない人物だが、『セロ弾きのゴーシュ』の最後の曲名が「印度の虎狩り」だったりして気になっていた。学生たちと親子関係や家族について話し合うと、どうも家族あるいは親からの『自立』に価値を置いていないことに気づく。同僚に聞くと、その通りだといった。親に反抗して自立していくというより、親の決めた結婚をするほうが間違えがないと考えている。
いくつか「驚いたこと」をあげてみたが、インドで学んだのは、50年以上も生きてきて自分なりにもっていた美意識や主張が、こびりついた水垢のような先入観にすぎないとわかったことだった。それほど心を揺すぶられ、魂が鍛えられた気がした5年半だった。
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